コラム集

以下は正しい森田療法というより筆者がこのように解釈したいと思った私流森田療 法に過ぎません。ただ私の感性に近い方には共鳴されるところがあると思います。



2021/10/17「細川氏の講話より抜粋」
◆心は万境に従って転ず◆
常に物事は変化している。不安定で何が起こるか分からない。 しょっちゅう浮き沈みがある。気持ちいい状態を望んでも、そうは ゆかない。悲しみもずっと続かない。良い人間であろうとしても思い通りにならない。 さっき悲しくても、人の笑顔をみればうれしくなることもある。 自分ではどうこうできなくても気持ちは変化してゆく。
◆私自身を知る◆
たいした人間ではなかったが、ほどほどの平凡な人間だった。 人には良い面と悪い面と両方ある。 自分は我慢しても人には優しくとか、そうではない。 自分がやりたいことをするのが大事。あふれてくるものが本物 。人が憎いと思ったら、そのままでよい。自分の中に 醜いところがあってもよい。それはしょうがない。 その自分でやってゆくしかない。 文責:管理人



2021/7 「物の性を尽くす」
● 森田先生のよく口にされた言葉(中庸の一節)でありその物の持っている値打ちを無駄にせずどこまでも発揮せしめるということであって、これは単なる効率主義ではありません。『「この物をむだにせぬ」ということは、同時に自分の頭の働きも、力もベストに使うことで、すなわち「己の性を尽くす」ということにもなる』(全集第五巻P439)とあります。ものの命が発揮されることなく捨てられてゆくのは惜しいからそうしたくなります。私は母の使っていた電動式ポータブルトイレを地域の〇〇支援センターに相談してみたところ、〇〇会病院にお譲りすることができました。 (^.^/ 



2020/11 「努力即幸福」
● 症状とは、いわば恐がりとか苦手意識のことであって、今、ここではそれらと肉体的弱点をもひっくるめてざっくりハンディと見做してしまうとします。そうするとハンディを背負ったままでも必要なことをやりとげることができたとするなら、目の前の景色は違って見える筈です。汗を流してたどり着いた時に見える景色にはそれなりの感動があります。それで、調子に乗ってだんだん高い山を目指しても、人にはそれぞれハンディがありますからどこかで持ち合わせの力では無理な標高差という”壁”が現れます。
 ここで残念な気持ち(強ければ挫折感)が湧いてくるはずですが、私の精一杯の努力の結果であれば、これでよしとするしかないか、という気持ちも沸いてくる筈です(客観的事実への主観的事実の接近)。私にとって精一杯の”努力”というものがあればこそ、これでいいのだというあきらめには爽やかな味が含まれているでしょう。これらは体験しなければ味わえないものだと思いますが。(以上は軽度右足小児まひの私が山歩きの趣味を通して感じたことです)



 2020/06 「不可能な努力と可能な努力」
・ 不可能な努力とは 一例ですが、人前で上がってしまうのが不安だからといって、アガルまいといくら自分に言い聞かせても、あるいは人の思惑は気にせずにいようとしても、そういう不安は自分が苦手と思う外的条件が整いさえすれば自然に無意識的反射的に湧き起こるようにできているので不安、心配を人為的になかったことにするわけにはゆきません。つまりはアガッてしまうことを、そうならないようにしようとしても不可能なので、この不可能なことを可能にしようと計らい努力することが神経症の基となります。
・ 可能な努力とは なんでアガるのかと言えば、例えばそこで自分が発表する時にへまをしてしまいそうだと想像するからであって、仮にアガルということを取っ払えば、そこには何らかの目的有る物事が残ります。この物事が本来、私にあたえられた仕事であり課題であり、私が意志の力で手を加えることが出来る世界です(外の世界)。  ですから、たとえ苦手としてもその物事をやり遂げることによって心配、不安を解消してゆくよりほかにしようがない。(あまりに無理な目標なら引き受けないことが正解である場合もあり得ます)  頭の中で湧き起こるアガッてしまう感じ(内の世界)にはどうすることもできないので、そのまま味わっておくしかしようがありません。
 しかし、それでは突き放した言い方だと思います。そこで、もし工夫するところがあるとすれば、アガリながらでも、なるべくへまをせずに済ます方法なら、ないわけではありません。  たとえばもしアガッてしまうと予想されるなら、予め事前準備(メモの用意)してそれを見ながら話すとか、自信の持てないところはプライドを捨てて先輩上司に頭を下げて相談し、準備段階で助力を乞うとか、最悪へまをした場合の心構え(自分の実力がバレて恥をかくなら、それも仕方がない、潔くそれを受け入れる覚悟をするのだ、等)を用意するということならある程度できなくもないと思います。  このようにアガらなくする努力は不可能ですが、たとえアガっても何とかしてやり遂げようとする努力なら、現状より少しでも這い上がろうとする健気な努力であって人生態度としてOKだと私は言いたいです。 そのようにして曲りなりにでも目的を達したら、不安を乗り越えたので安堵します。(場数を踏む必要はあります)



● 2020/05 「コントロールできることと、できないこと」
・ 過去の私:人からしっかりしていると見えるかどうかを気にしていたので、普通の人を70点とすれば、それ以下にならずに済むように周囲の目を気にして戦々恐々としていました。
・ 現在の私: 自分はどうしたいのか何ができるだろうかと考えるようになりました。 例えば、両親の葬儀では香典を受け取るかどうかが私にとって問題でした。そうしますとお返しをするのは面倒で無駄という思い(注1)が私にはあり、次に、せっかくの香典を受け取らないのは勿体ないとも思いました。そしたら香典返し相当分は国境なき医師団を始めとする三つの社会団体に寄付させていただくことを思いつきました。両親の死を世のために役立てたいと、趣旨説明書を用意しました。そして挨拶は形式ばらず子供のころの懐かしい思い出を原稿を読みながらですが話させていただき、何とか無事葬儀を終えることができました。(私の選択と行動は良かれと思うことをすることができますが、その結果どう思われるかは見る人次第です。それで構わないと思います)
(注1) については私はそう思うだけで、良し悪しを言うつもりはありません。



● 2020/04 「人生の選択」
・ 過去の私:いろんなことに優柔不断で物事を決めることができず、人の思惑を気に するばかりで自分の意見がありませんでした。失敗しないように無難なほうへ無難 なほうへと身を潜めようとするみじめったらしい人生を生きていると思うことがよ くありました。
・ 現在の私:優柔不断は昔とたいして変わりません。なるべく人の意見に合わせる私 がいます。人が決めてくれるとほっとすることがあります。しかし良く言えば受け 入れる幅があると言えなくもない。これで世の中平和に収まっているとも言えるで しょう。 しかしどうしても受け入れがたい場合は真剣に考え抜いて思い切って意見を言うこ ともあります。主張するからには結果責任は自分が引き受けざるを得ません。私の 人生の主人公は私です。しかし同様にBさんの人生はBさんが主人公ですから、周り の人の生き方もなるべく認めたいです。



●2020/02 己の性(しょう)を尽くす(右足の性を尽くす)
・過去の私:体が痩せっぽちな上、右足は軽くて済んだけれど小児まひの影響で細くて力が出ないし、かっこ悪くてプールの時間が嫌でした。山歩きしたら足は攣るし。この足さえまともならと苦々しく思っていました。
・現在の私:私なりに少しでも眺めの良い山に登りたいと、スクワット等トレーニングをしていましたが、山歩きの最中にふと右足は右足なりに足を攣らせてまで私のために精一杯頑張ってくれていたのだと気づき、これでいいのだと思えるようになり、心が軽くなりました。かっこ悪いと思わないのかと言われたら、見られたらかっこ悪いとは思いますが、人は人、私は私。自分の持ち分の力を精一杯発揮することこそが大事だと思っていますので、見てくれは二の次になったと言わせていただきます。 (元の意味からは少しズレた話かもしれません。  ^^;  )



● 2019/12 感情は自然現象 
・ 過去の私:失敗して湧き起こる自己嫌悪は「だからおまえはだめなんだ」という結論に直行し、嫌な感情はミスを繰り返す罰だとしか思えず、この自己嫌悪が自然現象だとはとうてい思えませんでした。失敗してはいけないと強く思えば思うほど、起こした失敗はつかんで離さなかったのです。 
・ 現在の私:しまった!と思った瞬間に失敗の事実をそのまま受け入れてしまい、自分のレベルが正直に現れたのだ、と言い聞かせながら(プライドを捨て)、では今、事後処理はどうすべきか、に立ち向かってゆきます。そうすると眼前には、解決しなければならない物事だけが存在し、ダメな自分(という感情)は現れても相手にしている暇がないのでそのうちどこかに消えてゆくようです。



● 2019/10 かくあるべしというは、なお虚偽たり。あるがままにある、すなわち真実なり。 
・ 私は、小学生のころ、給食恐怖症になってしまいました。 そのころ、母は私にこう言っていました。「何でも好き嫌いせんと食べへんかったら、ガリガリに痩せて栄養失調になって死んでしまうんやで」 私は、昼にはお腹が空いてくるかどうかを気にするようになり、おかずの匂いが漂ってくると、もう吐き気がするようになり、エヅキながら無理やり食べる給食は拷問のような苦しみの時間となり、とうとう学校へ行けなくなってしまったのです。
・ 部屋の隅で膝を抱えている私に母はこう言いました。「そんなに嫌いなおかずなら無理して食べても身に付かへんから、無理に食べなくてもいいよ」 そしたら、ああ、やれやれ!、「なんだ無理して食べなくてもいいのか」と思ったら、数日と経たずお腹が空くようになり、好き嫌いなくほぼ何でも食べれるようになってしまったのです。あれは一体何だったのだろうと当時、子供心にも不思議でした。



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● 2019/09 「こうやったら失敗するのか」 
・ 過去の私:何事につけ、へまをして人から注目を浴びることを恐れ、予め失敗しそうなことから、逃げよう逃げようとしていたので、そのつもりはないにせよ、力の出し惜しみをしていたようなもの。これでは失敗の苦さからは逃れても、成功体験の面白さも得られない。
・ 現在の私:失敗したらこうなるのかと思えばひとつ賢くなる訳で、恥をかかないよう気を遣うより、恥をかける人間になった方が気楽で得策だなと思う自分がいます。勿論失敗したくない私もちゃんといますが。



● 2019/06 「現在になりきる」 
・ 過去の私:失敗すると、しまった、またやってしまったと自己嫌悪。恥ずかしい思いはしたくないと、周囲の人の思惑ばかり気にしていたので、頭の中では過去からの失敗はどんどん積み重なって行き、やっとこさ一つ成果をあげても、遅かれ早かれ次の失敗でまた元の木阿弥。それで、ああ本当はこんなにも自分はダメ人間だったのだろうかと思わずにはいられませんでした。
・ 現在の私:失敗すると直ちにその事実を確かめ、今できる最善策はなんだろうと考え行動します(どうにもできないこともありますが)。その時には必死ですから、なすべき物事と私は一体です。(人の思惑とか私のプライドを考えている余裕はありませんから)  考えてみたら、自分がダメ人間だということを考え続けることで何かが良くなることはあったのかな?と思います。それはどうにもならないことをただ悔やみ続ける苦しさだけだったと思います。  たとえ失敗の後始末にせよ、今できる最善策を考えることは、現実を何とか少しでも良くしようとする(時には切なくも)健気な気持ちですから、私は私に対してOKにしたいです。何度失敗してもそのように努力し続けられる人でありたいです。



● 2019/05 「物事本位」 
・ 過去の私: 何とか恥をかかずに済ませたいとミスを恐れ、あるいは本当はこんなに逃げ腰で弱い心の持ち主であることがばれてはならないと思い、周囲の人が私のことをどう思っているのか気にかけ、要するにプライドが傷つかないよう、自己防衛で精一杯になってしまっていました。
・ 現在の私: 面倒でもそれが必要なことならするしかなく、ただ失敗はしたくないので、不安、心配なまま物事をよく観て調べ、分からなければ頭を下げて周囲の人に教わりにゆき、私のプライドより物事そのものが滞りなく進行することを優先するよう心掛けます。又、問題が生じた場合には、頼りない自分のまま、何としても解決すべく、少なくとも持ち分の力だけは出し惜しみせずに発揮させ、事に当たるよう心がけます(いつでもそうだとは言いませんが ^^;)。



● 2019/04 「事実唯真(じじつただしん)」
・ 怖いものは恐い、これが事実。だからといって逃げてばかりではふがいない、これも事実。
・ 私的考え方: だったら恐る恐る挑戦するしかないんじゃないでしょうか?。でも、もし失敗したら?。そのときには失敗を恐れて最初からあきらめる自分と、やれるだけやって失敗する自分はどっちが好きか考える。



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